こんにちは!
コータです。
今回は
私がどうやって0から
「個人で稼ぐ」ことになったか
私の辿ってきた道のりを
お話ししようと思います。
先に断っておきます!
今回は私コータが
どういう人間なのかを
ご紹介するためのものです。
ビジネスに関するノウハウなどは
ほとんど語りませんので、
コータについて興味が少しでも
ある方のみこの先をご覧ください!
正直今回のブログでは
書ききれないほど
回り道をしてきた人生でした。
なので、
これまで回り道をしてきた
コータの生き様を知って
「自分でもできるかもしれない」
と踏み台にしてもらえたら幸いです。
それでは始めます!
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私自身は、東京都府中市で生まれました。
父親は外資系企業の役員で
宮城のド田舎出身。
仕事ばかりで
家庭よりも仕事第一優先。
尊敬できるところは
仕事ができる
というところだけでした。
母親は中学校の英語の先生。
自分で言うのもなんですが、
相当美人でした。
二人は私が幼い頃に離婚しました。
原因は父が実家のある宮城で住みたいと
言い出したからだそうです。
母は完全に都会派だったので
そこから激しい親権争いが
始まったみたいです。
物心ついたのは保育園の頃。
祖母が毎回保育園まで
車で連れて行ってくれたのを思い出します。
5人家族。
母は教員のため、私を保育園に
いつも連れていってくれたのは
祖母でした。
なので、おばあちゃんが大好きでした。
保育園時代から人間関係に苦しみました。
2人の男友達(保育園児)がいて、
3人でつるんでいましたが、
自分以外の2人がつるみ、
1人になることが多かったのです。
仲良くなりたいのに仲良くなれない
寂しさをこの頃から感じていました。
「なぜ自分のことを分かってもらえないんだろう」
と殻に閉じこもり、自信がなくなりました。
小学校では最悪の事態が起きました。
小1からサッカー少年団に入りましたが、
もともとイケイケのモテるタイプではないので
自己肯定感は皆無でした。
そこで、いじめられました。
小5・6で転校してきたイケメンのT君。
集団をつくっては、
1人を無視することをゲーム感覚で子でした。
ある時自分はターゲットになり、
そこから地獄のような日々が始まりました。
上履きに画鋲があった時は驚きました。
T君の下っぱのN君の仕業でした。
N君は基本心が優しいヤツでした。
相当ショックで、いじめにより
さらに自分に自信がなくなりました。
小6の最後までいじめられていました。
私はこう考えました。
「無理にかかわる必要はない!」
そう決意をし、
小学校卒業までの半年間は
全くからんでいなかった友達2人と
絡むことにしました。
そこで、
「自分はムリしなくていいんだ」
「ラクになれる友達が本当の友達なんだ」
と気づけました。
しかし、
その出来事がマイナスにもなりました。
いつしかイヤなものから逃げるクセが
ついてしまったようです。
極度のめんどくさがり屋だったのと
性格が悪かったため
再び中2から
同級生からのいじめを受けました。
自業自得です。
いじめられる原因としては、
「もともと空気が読めない」
「相手の話しを聞かない」
「自分に甘く、他人に厳しい」
面があったからだと思います。
高校を選ぶ基準も不純なものでした。
「あの高校に行けば、モテんじゃね?」
「オレの人生はリセットできる」
のような、浅はかで
現実逃避したいだけの考え方でした。
恥ずかしい限りです。
高校では、
父親も祖父も早稲田ということもあり
「自分も早稲田だ!」のような
凝り固まった学歴至上主義思想を
持っていました。
そこで入った学校が
某六大学の附属高校。
(早稲田ではない)
エスカレーター式なのに
早稲田にいってやろう
というあまのじゃく的発想でした。
人間関係のイザコザには懲り懲りで
帰宅部を選びました。
なぜか、
受験に明け暮れる生活を送ったのです。
しかし、結果は惨敗。
早稲田に全落ちしました。
あらゆる早稲田の学部を受け、
全て落ちました。
結局早稲田の滑り止めとして受けた
学習院に進学することになりました。
新歓で大学3年生の美人女子大生に
一目惚れし、
某文化系サークルに入ることを決意。
しかし、
告白する勇気すら出ず、
平凡な大学生活を過ごしました。
大学時代は
「個人で稼ごう!」
なんて気持ちは全くなかったです。
なぜなら
私は教員になろうと思っていたから。
母親と同じ道を辿ろうと
思っていたからです。
大学卒業後、
臨時的教員(1年契約)で
中学校教師生活をスタートさせました。
いきなり中2の担任になれと、
3月下旬に言われました。
その時の自分は、
その大変さにも気づいていませんでした。
4月終わった辺りから、
ガラガラとクラスが崩れ始めるのが
分かりました。
まさに学級崩壊。
そこでようやく気づいたんです。
「オレにはこの仕事合わねえ!」と。
アホすぎますね。
考えが浅はかでした。
生徒からノートに
「なんで先生になれたんですか?」
と書かれたり
クラス黒板にラクガキ
机にもラクガキ
安心感のないサバンナ状態に。
定時に帰る学年主任。
の陰で、最高で朝3時半に帰る始末。
仕事が終わらない。つらい。
クラスも部活も授業も
何もかもうまくいかない。
日々がつらい。逃げたい。
クラスへの伝達ができない。
メモしてないから抜け落ちる。
生徒からは不信感の荒らし。
2年目になっても次から次へと
試練が訪れました。
授業も英語を教えてましたが、
堂々と英語を教えられませんでした。
なぜなら実績がないから。
「このままではだめだな」
と思い始めました。
そこで、一度教員を退き、
語学留学を決意しました。
どうせやるなら、
とフィリピンのスパルタ語学学校へ。
そこで、多くの価値観と出会いました。
(会ったことのない場所、人、文化)
教員の世界が
いかにちっぽけな狭い世界だと知りました。
2ヶ月でTOEICを670から900に上げ、
英語に自信がつきました。
英語に自信がついたので、
ニューヨークで勉強しようと思い
渡米を決意。
勉強中なのに、
フロリダディズニーやナイアガラの滝、
ボストン、カジノなど
チャイナタウンの格安ツアーで観光しまくりました。
NYの名所にも必ず行かないと気が済まず
とにかくあらゆるところに足を運びました。
そこではアフリカやヨーロッパの
あらゆる友人ができました。
NYでの3年間を経て
いよいよ日本に帰国し、
英語の先生として
再び戻ってくることになりました。
採用された職場は
縁もゆかりもない市で、ど田舎。
荒れに荒れており、また現実に戻されます。
ここでもトラブル続きで、
私は苦しみに苦しみました。
そんな生活を10年間以上続けた時、
ある学校の特別授業で
話しをしにきてくれた先生がいました。
彼は起業家で、
生徒たちにこう言いました。
「仕事は①好きなもの②得意なもの、を
選ぶと幸せになれるよ」
この言葉は衝撃でした。
私は①も②も該当していない
仕事をしていたからです。
あと、何よりも「時間」を
欲してました。
自由になれる時間を。
私は転職を考えることを
決意しました。
そこから恋愛を磨いたり、
自分を変えることを
人生のテーマにしました。
コーチングも受けました。
すると、
今までにはない
「人生有限マインド」が
身についたのです。
「人生は一度きり。
やりたいことをやらないのは損」
自分のことを信じられるようになり
私はこう思いました。
「ビジネスもガチったら
成功できるんじゃないだろうか?」
この考えで、
私は必死に「個人で稼ぐ」方法を
模索していったのです。
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私はその後
良い出会いと良い環境に出会い、
人生を好転させることができました。
「チャンスは流れ星」
そのチャンスをつかめる人と
つかめない人の差は何か。
私は、「今の状況を変えたい!」
と思う気持ちの強さだと思います。
現状を変えようとしない人は
結局今の生活に満足しているんです。
でも、誰もあなたの人生を
好転させてくれません。
あなたの人生を良くするのは
いつだってあなた自身です。
チャンスをつかむ。
これは誰にでもできることではありません。
あなたも私と一緒に
困難を乗り越えていきましょう!
コータでした。
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